他人の気持ちが気になってそれを伺い伺い行動し、それが他人を苛つかせるヒロイン。対して、昔の出来事の「復讐」をする、として彼女を繋ぎとめる男。
正直、出だしは「これは・・・ちょっとどうしたものか」と危惧した。が、話が始まると引き込まれ。
近すぎて、行動するのに何か理由を作らなければいけない間柄の不幸と、不自然な形でもそれで幸せだった日々と、闖入者によりそのまやかしが暴かれうろたえる姿と。クライマックスは喋りすぎ説明過剰だが、しかし、素直になることが鍵なのでこれはあってしかるべき場面なのかもしれない。
こうした話でありながら、悲劇として閉じない結末は意外。一歩突き抜けた終わり方で、席を立ち劇場を出て日常に戻らなければならない観客にとってこれはありがたい。
劇団、本谷有希子 第9回公演「乱暴と待機」
@新宿シアターモリエール
全席指定3500円(前売)
⇒江利子と絶対―本谷有希子文学大全集
過去記事
⇒劇団、本谷有希子「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」
⇒劇団、本谷有希子「石川県伍参市」
他ブログのレビューは・・・
⇒正しくも松枝日記
⇒臭い人
⇒デジログからあなろぐ ※こちらが丁寧に他ブログ解説されてます。確かに、これだけ記事にされているのは「シベリア少女鉄道」除けば、そうはないかも。
⇒休むに似たり。
⇒ほぼ観劇日記
⇒しのぶの演劇レビュー
⇒△ ゾウの猿芝居 ▽
・・・概ね好評ですね。
「現代演劇ノート〜〈観ること〉に向けて」さんが書かれている、「「演劇」という表現形態について十分な配慮が行き届いていない」点は、確かに見ていてひっかかる部分でした。暗転は映画的で、そもそも冒頭からして私はジャマだと思っています。そして、どの芝居もたいていやりますが、暗転後のエピローグ、演劇の制約である時間を超越したいというテクニックであることはわかりますが、リアルタイムで見せているのだから時間の移動なしで完結する芝居のほうが実は上等なんじゃないかという思いもあります。だったら映画でやればいいじゃないか、と考えたりはします。映画で時間経過が現実と同じというのは面白いが実験にすぎず、だったら演劇としてやればいいじゃないか、と思うのと反対ですね。
また、身体的特徴になにか言われはあるのかというと、それはあるんでしょうが、無理にキャラクターづけすることの嫌らしさを感じなくもない。ただ、今度は小説との対比でいうと、文字で書くのと違うのだから、パッと見でひっかかる特徴を提示するのは演劇の利点なのかもしれない。そこに込めた意味は見るものにとって鬱陶しいときが多々ありますが。ここではファンタシーの入り口として設けられているにすぎないんでしょう。
ただ、今回の芝居は、「a piece of cake !」さんにもあるとおり、「馬渕英里何にユニクロのジャージを着せたかった=vに集約されると思うので、足を引きずる云々というわかりやすい設定よりも、こちらのビジュアルにこそ、演劇として提示する意味があったのではないかと。・・・それって演劇としてどうなのという意見もありそうだな・・・でも、見る側の感情には確かに訴えかけますから、正しい発想だと思います。
【お芝居好きに・・・】
⇒雑誌の定期購読はいかがですか?
演劇ぶっく
Invitation(インビテーション)
⇒持っていると便利?
チケットに強い!PIAカード
⇒演劇の放送は、結構あなどれないラインナップ
ステージ見るならWOWOW
